ネイチャーポジティブ時代における農業・林業・ブルーカーボンの現況と構造変化
― 生物多様性・吸収源ビジネスの再定義と人材ニーズの高度化 ―
気候変動対策と生物多様性保全を同時に進める「ネイチャーポジティブ」の潮流が強まるなかで、 農業・林業・沿岸生態系(ブルーカーボン)は、環境負荷の発生源であると同時に、 重要な「解決の場」としても注目を集めています。
従来、農林水産業や自然環境の保全は、「コスト」あるいは「補助金で支えるべき公共的活動」として 語られることが多かった一方で、現在は、カーボンクレジットや生物多様性クレジット、 サプライチェーン全体のリスク管理、地域価値の向上などを通じた 「事業機会」としての位置づけが明確になりつつあります。
以下では、農業・林業・ブルーカーボンとネイチャーポジティブの現状について、
- ① 政策・制度動向
- ② 産業構造
- ③ 技術・ビジネスモデル
- ④ 人材・ケイパビリティ
の4つの観点から俯瞰し、最後に今後の主要な論点を整理いたします。
1. 政策・制度動向:気候・生物多様性・食料安全保障の統合
まず前提として押さえておくべきは、農業・林業・海洋生態系が、 「気候変動」「生物多様性」「食料・資源安全保障」という複数の政策アジェンダの接点に位置していることです。
- 気候変動分野では、森林・土壌・沿岸湿地などの吸収源を活用した削減・吸収プロジェクトが カーボンクレジットや企業のネットゼロ戦略と結びつきつつあります。
- 生物多様性分野では、「自然関連リスク」の可視化やネイチャーポジティブ目標の設定が進み、 農地・森林・沿岸域の保全・再生が企業のリスク管理・レピュテーション戦略と密接に関わるようになっています。
- 食料・資源安全保障の観点からは、気候変動や生態系劣化に伴う生産リスクを緩和しつつ、 持続可能な生産性向上をどう実現するかが重要なテーマになっています。
これらの政策・制度動向は、農林水産業や沿岸地域のプレイヤーに対して、 従来型の補助金依存モデルから、環境価値や生態系サービスを含めた 「多面的価値のマネタイズ」を求める方向へと変化を促していると言えます。
2. 産業構造:一次産業・地域主体・ソリューション企業のエコシステム化
農業・林業・ブルーカーボンをめぐる産業構造は、 単なる一次産業の枠を超えた「エコシステム」として再編されつつあります。
農業・畜産・アグリビジネス
生産者単体ではなく、流通・加工・小売までを含むバリューチェーン全体で、 温室効果ガス排出、生物多様性インパクト、土地利用転換リスクなどを マネジメントする動きが進んでいます。再生型農業や生物多様性配慮型の生産方式は、 ブランド価値や調達ポリシーと紐づきやすく、サプライチェーン全体での連携が不可欠です。
林業・木材・森林マネジメント
木材生産、間伐・造林、森林保全、観光・レクリエーションなど、 森林に関わる機能を複合的に組み合わせる取り組みが広がっています。 さらに、森林由来のカーボンクレジットや、企業のオフセット・インセティブ制度との連動など、 「森林をインフラとして捉える」発想が強まっています。
ブルーカーボン・沿岸生態系ビジネス
藻場・干潟・マングローブなどの沿岸生態系は、 炭素吸収と生物多様性の双方を担う重要なフィールドとして再評価されています。 従来は公共事業や保全活動として扱われることが多かったものの、 近年は漁業・観光・防災・教育などと組み合わせた複合的な事業モデルが検討されており、 地域主体・研究機関・企業の連携が求められています。
ソリューション・サービス事業者
リモートセンシング、地理空間情報、環境計測、コンサルティングなど、 データと専門性を武器にしたソリューション企業も重要なプレイヤーです。 MRV(測定・報告・検証)や評価指標の設計、プロジェクトの組成・管理、ファイナンスの組み立てなど、 現場と金融をつなぐ役割を担っています。
このように、農業・林業・ブルーカーボンをめぐる領域は、 一次産業・地域社会・テクノロジー企業・金融機関が重なり合う「多層的な産業構造」として 捉える必要がある段階に来ていると考えられます。
3. 技術・ビジネスモデル:再生型とデジタルを軸にした高度化
技術・ビジネスモデルの面では、「再生型(リジェネラティブ)」と「デジタル」が 共通のキーワードになっています。
-
再生型農業・低インパクト林業
土壌の有機物蓄積、生物多様性の向上、水循環の改善など、 生態系の機能を高めながら生産性を維持・向上させるアプローチが重視されています。 化学肥料や農薬への依存度を下げつつ、長期的な生産基盤を強化する取り組みは、 食料安全保障と環境リスク低減の双方に資するものです。 -
スマート農業・スマート林業
センサー、ドローン、衛星データ、機械学習などを活用して、 生育状況・樹木成長・土壌水分・病害リスクなどを把握し、 精密な施肥・伐採・間伐・作業計画を行う動きが広がっています。 これにより、生産性向上と環境負荷低減の両立を目指すことが可能になります。 -
ブルーカーボンプロジェクトとMRV
藻場や干潟などのブルーカーボン生態系を再生・拡大し、 吸収された炭素量や生態系サービスを定量化する取り組みが進んでいます。 一方で、科学的な測定手法や長期的なモニタリング体制の構築が課題となっており、 プロジェクト組成には高い専門性が求められています。 -
自然資本を活用したファイナンス・ビジネスモデル
カーボンクレジットや生物多様性クレジット、環境価値を組み込んだファンド・ローンなど、 自然資本を評価し、金融商品と接続する動きも加速しています。 これらは、地域の保全・再生プロジェクトに民間資金を呼び込む手段として 期待される一方、信頼性や追加性の確保が重要な論点になっています。
これらの技術・ビジネスモデルは、単体で成立するというよりは、 地域の実情や生態系の特性、既存産業との関係性を踏まえて「組み合わせる」ことで 初めて持続性の高い事業として立ち上がるケースが多くなっています。
4. 人材・ケイパビリティ:現場とファイナンスをつなぐハイブリッド人材
ネイチャーポジティブやブルーカーボンを実装していくうえでは、 従来の「現場人材」「研究者」に加え、ビジネス・ファイナンス・デジタルの素養を持つ ハイブリッド人材が不可欠になりつつあります。
1. 現場オペレーション・マネジメント人材
農業経営者、林業事業体、漁業・養殖業者、地域のNPO・協議会など、 現場でのオペレーションを担う人材は引き続き基盤となります。 そこに、環境配慮型の生産方式や保全活動を経営・労務・安全管理と両立させる マネジメント能力が求められています。
2. 科学・技術・エンジニアリング人材
生態学、土壌学、林学、海洋学などの専門性に加え、 計測技術やモデル化、MRVスキームの設計に携わる人材の重要性が高まっています。 大学・研究機関と連携しながら、プロジェクトに科学的な裏付けを与える役割を担います。
3. ビジネス・ファイナンス人材
プロジェクトの収支構造設計、リスク評価、契約スキーム構築、 カーボンクレジット・生物多様性クレジットの扱いなど、 自然資本を前提としたビジネスモデルを設計できる人材が求められています。 企業のサステナビリティ戦略や投資判断と現場の取り組みを接続する役割を担います。
4. デジタル・データ人材
リモートセンシング、GIS、データプラットフォーム、ダッシュボード等を活用して、 自然資本に関するデータを収集・分析・可視化する人材も不可欠です。 現場の状況を理解しつつ、データを使って意思決定を支援できる人材は、 今後ますます重宝されると想定されます。
5. ステークホルダー・エンゲージメント人材
地域住民、自治体、企業、研究機関など、多様なステークホルダーの利害を調整し、 合意形成を進めるファシリテーション能力も重要です。 特に自然資本関連プロジェクトでは、長期性と不確実性を前提とした 丁寧なコミュニケーションが求められます。
5. 今後の論点:ネイチャーポジティブの「実装」と「信頼性」の両立
農業・林業・ブルーカーボンを軸としたネイチャーポジティブの取り組みは、 コンセプト段階から、実際のプロジェクト・投資・人材育成を伴う 「実装フェーズ」に入りつつあります。一方で、次のような論点も浮き彫りになっています。
- 自然資本・環境価値の評価手法の標準化と、プロジェクトの信頼性確保 (グリーンウォッシュ・ネイチャーウォッシュへの懸念への対応)
- 気候・生物多様性・地域経済の三つの価値を同時に追求する事業設計と、 それを支えるガバナンス・契約スキーム
- 農林水産業の担い手不足・高齢化と、ネイチャーポジティブを担う 新たな人材の確保・育成との両立
- データ・デジタル基盤の整備と、地域の現場における実装コスト・負荷のバランス
- 国内外の制度変化や市場動向を踏まえたプロジェクトポートフォリオの再構成
いずれにせよ、農業・林業・ブルーカーボンは、 「環境配慮」や「CSR活動」の領域にとどまらず、 ネイチャーポジティブ時代における競争力の源泉としての性格を強めています。 各プレイヤーは、自社・自地域のポジションと強みを再定義し、 生態系の再生とビジネス価値の創出を両立させる戦略と人材ポートフォリオを 構築していくことが求められていると言えます。